無重力の宇宙では、「視力が低下する宇宙飛行士がいる」と聞くと、なぜ重力がなくなるだけで目に影響が出るのか不思議に感じるかもしれません。実際には、単純に目が疲れたり眼圧が上がったりするだけではなく、体内の血液や水分の分布が大きく変わることが関係しています。
宇宙飛行士にみられる代表的な変化は「SANS(宇宙飛行関連神経眼症候群)」と呼ばれています。この記事では、無重力で視力が低下する理由を中心に、眼球や視神経に何が起こるのか、地球へ戻れば元に戻るのか、NASAなどがどのような対策を研究しているのかまでわかりやすく説明します。
無重力で視力が低下する主な理由は頭側への「体液シフト」

無重力環境で視力に変化が起こる最大のポイントは、血液などの体液が地上とは違う場所に分布することです。現在の研究では、頭の方向へ体液が移動する「頭側体液シフト」が、宇宙飛行士の目に起こる変化の主要な出発点と考えられています。
地球では重力が体液を下半身へ引っ張っている
地球上で立っていると、血液をはじめとする体液には重力が働きます。そのため、何もしなければ体液は足側へ移動しやすくなります。心臓や血管は、この重力の影響を受けながら脳を含む全身へ血液を送り続けています。
ところが微小重力環境に入ると、体液を下半身へ引っ張っていた重力による圧力差がほとんどなくなります。その結果、地上では下半身に分布していた体液の一部が胸や首、頭の方向へ移ります。JAXAも、この現象を「体液シフト」と説明しています。
宇宙飛行士の顔が地上より丸くむくんで見えたり、反対に脚が細く見えたりするのも同じ仕組みです。つまり、目だけに特殊な現象が起こっているのではなく、全身で起きた体液分布の変化が目や視神経にも影響すると考えるとわかりやすいでしょう。
頭に集まった体液が目の後ろ側の環境を変える
頭部へ移動するのは血液だけではありません。静脈の血流や組織内の水分、脳と脊髄の周囲にある脳脊髄液などの圧力や流れも、地上とは異なる状態になります。
特に重要なのが、頭や首から心臓へ戻る静脈血です。地上では立ち上がることで重力を利用した排出が行われますが、宇宙では「立って頭を低圧状態に戻す」という時間がありません。そのため、頭部周辺では軽度のうっ血が長時間続く可能性があります。
無重力そのものが網膜を直接傷つけるというより、無重力によって体液の分布や圧力のバランスが変わり、その状態が長く続くことが視力変化につながると考えられています。
眼球の形が変わるとピントの位置も変わる
長期宇宙飛行では、眼球の後ろ側が平らになる「眼球後部平坦化」が確認されています。眼球はカメラのように、角膜や水晶体で光を屈折させ、網膜上に焦点を合わせることで物を見ています。
そのため眼球の前後方向の形がわずかに変化するだけでも、光が結ぶ焦点の位置は変わります。宇宙飛行士では遠視方向への屈折変化が生じることがあり、特に近くの文字が見えにくくなる場合があります。
「宇宙へ行くと視力が落ちる」と表現されることがありますが、すべてのケースで視覚そのものが失われているわけではありません。眼球の形や屈折状態が変化し、それまで使っていた眼鏡ではピントが合いにくくなるケースも含まれています。
宇宙飛行士の目に起こるSANSとは

長期間の宇宙飛行で確認されている一連の眼や視神経の変化は「Spaceflight Associated Neuro-ocular Syndrome」、日本語では宇宙飛行関連神経眼症候群などと呼ばれます。略称はSANSです。
NASAはSANSの代表的な所見として、視神経乳頭浮腫、眼球後部の平坦化、脈絡膜や網膜のしわ、遠視方向への屈折変化などを挙げています。単なる視力検査の数値の変化ではなく、目の構造自体にも変化が確認される点が特徴です。
| 主な変化 | 目で起こっていること | 見え方への影響 |
|---|---|---|
| 視神経乳頭浮腫 | 視神経が眼球へ入る部分がむくむ | 程度によって視野などへの影響が問題になる |
| 眼球後部平坦化 | 眼球の後ろ側が通常より平らになる | 遠視方向へ屈折が変化しやすい |
| 脈絡膜・網膜のしわ | 眼底の組織に折れやしわが生じる | 位置や程度によって見え方へ影響する可能性がある |
| 遠視化 | 光の焦点位置が変化する | 近くの文字などが見えにくくなる場合がある |
視神経の出口がむくむ「視神経乳頭浮腫」
視神経は、網膜で受け取った情報を脳へ届ける重要な神経です。その視神経が眼球から出ている部分を視神経乳頭と呼び、SANSではこの部分が腫れる「視神経乳頭浮腫」が代表的な所見として確認されています。
視神経乳頭の周囲には、血管や脳脊髄液など複数の要素が関係しています。微小重力による頭側への体液移動が静脈の流れや圧力関係を変化させ、むくみにつながるという考えが有力です。
NASAでは光干渉断層計(OCT)などを使って、宇宙飛行士の網膜や視神経周辺を飛行中にも詳しく測定しています。OCTは目の奥を断層画像として確認できる検査で、ごく小さな厚みの変化も調べられます。
眼球後部が平らになり遠視方向へ変化する
SANSで特に「見えにくさ」と結び付きやすいのが、眼球後部の平坦化です。眼球の後ろ側が前方向へ押されたような形になると、眼球の前後方向の長さや網膜の位置関係が変わり、屈折状態が遠視側へ移動します。
遠視方向へ変化すると、特に近距離へピントを合わせにくくなることがあります。実際に宇宙飛行中、細かな文字を読む際に、それまでより強い度数の眼鏡が必要になった宇宙飛行士もいます。
網膜や脈絡膜にもしわが生じることがある
眼球の内側には光を感じる網膜があり、その外側には網膜へ酸素や栄養を届ける血管の多い脈絡膜があります。宇宙飛行後には、これらの組織に「脈絡膜しわ」「網膜しわ」と呼ばれる変化が確認されることがあります。
頭側への体液移動によって脈絡膜の血液量や静脈圧が変わり、組織の厚さや形状に影響する可能性が指摘されています。ただし、SANSのすべての所見が同じ原因から発生していると証明されたわけではありません。
視神経乳頭浮腫が強い人もいれば、眼球平坦化が目立つ人もいます。左右の目で変化の程度が異なるケースもあることから、単一の圧力だけで説明できない複雑な現象だと考えられています。
なぜ無重力では体液の変化が長期間続くのか

SANSを理解するうえで重要なのは、宇宙飛行士が単に一時的に「頭に血が上った状態」になるわけではないことです。地球では一日の中で姿勢を変えるたびに体液の分布も変化しますが、微小重力では地上のような重力による周期的な変化がなくなります。
地球では立つだけで頭部の圧力環境が変わる
地球で横になっている状態から立ち上がると、重力によって血液が脚側へ移動します。頭部の静脈圧や頭蓋内の圧力も姿勢に応じて変化します。昼間に立ったり歩いたり、夜に横になったりすることで、私たちの体は異なる圧力環境を繰り返しています。
宇宙では体を縦にしても横にしても、地球上のような上下方向の静水圧差がほとんど生じません。つまり頭や目の周辺には、地上で立っているときに生じる「体液を足側へ戻す時間」がありません。
この違いから、極端に高い圧力が一時的にかかることよりも、地上とは異なる軽度の圧力・体液環境に何週間、何カ月もさらされ続けることが重要ではないかという見方があります。
静脈の流れが変わり頭部がうっ血しやすくなる
頭から心臓へ血液を戻すルートの一つが内頸静脈です。微小重力環境では、この静脈の太さや血液の流れ方が地上とは変化することが確認されており、血液が停滞したり通常とは異なる方向へ流れたりするケースも研究されています。
静脈から血液が流れ出にくくなれば、目の周囲や脳の周辺にある静脈にも影響する可能性があります。こうした「静脈うっ血」は、現在考えられているSANSの重要なメカニズムの一つです。
ただし、体液シフトが起こった人全員に同じ程度のSANSが発生するわけではありません。頭部の血管や視神経周辺の構造、代謝など、個人差を生む別の要因も関係していると考えられています。
短時間の無重力と数カ月の宇宙滞在は同じではない
「無重力になるとすぐ視力が悪くなる」と考える必要はありません。体液シフト自体は宇宙へ到達すると早い段階から始まりますが、SANSで問題となる構造変化は特に長期間の宇宙飛行との関係が注目されています。
数秒から数十秒程度の微小重力を経験する航空機の放物線飛行と、ISSで数カ月生活する状況では、人体が異なる環境にさらされる時間が大きく違います。
そのため将来、月や火星へ向かう有人探査ではより重要な問題になります。火星飛行では宇宙滞在がさらに長くなるため、軽度の変化であっても蓄積すればどこまで進行するのかを把握する必要があります。
「頭蓋内圧が上がるから視力が落ちる」だけでは説明できない

宇宙飛行による視力変化が注目され始めた当初は、頭側へ移動した体液によって頭蓋内圧が上昇し、その圧力が視神経を押すことが主な原因ではないかと考えられていました。しかし現在は、それだけでは説明できないことがわかってきています。
以前はVIIPと呼ばれていた
SANSは以前、「Visual Impairment and Intracranial Pressure(VIIP)」という名称で呼ばれていました。これは視力障害と頭蓋内圧の関係が原因として強く疑われていたことを表しています。
地球上でも頭蓋内圧が異常に高くなる病気では、視神経乳頭浮腫が起こることがあります。そのため宇宙飛行士に似た所見が見つかった際、頭蓋内圧上昇という説明は非常に合理的でした。
ところが詳しいデータが集まるにつれ、地上の頭蓋内圧亢進症とSANSでは症状の出方に違いがあることや、SANSの宇宙飛行士で必ずしも病的な頭蓋内圧上昇が確認されないことがわかってきました。
JAXAの研究でも頭蓋内圧上昇は必須ではないことが示された
JAXAが紹介している日本大学などの研究では、長期宇宙滞在を経験した宇宙飛行士について、血圧と脳血流速度などから頭蓋内圧を推定し、飛行前後の変化が調べられました。
その結果、飛行後の推定頭蓋内圧は多くの宇宙飛行士で低下または大きく変化せず、眼球異常が確認された人の中にも頭蓋内圧推定値が低下した例がありました。
現在は「頭蓋内圧が異常に上がること」がSANS発生の必須条件とは考えられていません。頭蓋内圧や脳脊髄液の変化が関与する可能性は残っていますが、それだけを原因とする説明は不十分です。
現在は複数の要因が組み合わさると考えられている
現在提案されている仕組みには、頭側体液シフト、静脈うっ血、脳脊髄液の流れの変化、脈絡膜の膨張、視神経周辺の圧力バランスの変化、宇宙飛行による脳の位置変化などがあります。
さらに代謝や栄養状態、遺伝的な違いなどがSANSの起こりやすさに関係する可能性も研究されています。ただし、これらの中から「これが唯一の原因」と断定できる段階にはありません。
宇宙へ行けば誰でも視力が低下するのか

宇宙飛行士全員に同じ視力低下が起こるわけではありません。NASAは、ISSで長期間過ごした宇宙飛行士のおよそ7割に眼底後部の腫れなど何らかのSANS所見が確認されると説明していますが、変化の種類や程度には大きな個人差があります。
SANSの所見があっても自覚症状が強いとは限らない
「7割」という数字を見ると、多くの宇宙飛行士が宇宙で深刻な視力障害になるように感じるかもしれません。しかし、医学的な検査で小さな構造変化が確認されることと、本人が日常生活に支障を感じるほど視力が低下することは同じではありません。
軽い視神経乳頭の腫れだけが見つかる人もいれば、遠視化によって近くを見るための眼鏡が必要になる人もいます。SANSの診断に関係する複数の所見がすべて同時に現れるわけでもありません。
したがって、「宇宙に半年いれば7割の人の視力が悪くなる」と単純に理解するより、「長期滞在者のかなりの割合で、詳しい眼科検査をすると何らかの神経眼科的変化が確認される」と捉えるほうが正確です。
地球へ帰れば改善する変化と残る変化がある
地球へ帰還すると重力が再び働き、体液分布は地上環境へ戻っていきます。それに伴って改善する眼の変化もあります。視神経乳頭浮腫は、帰還後に時間をかけて減少するケースがあります。
一方、すべてが短期間で完全に元通りになるとは限りません。研究では、遠視方向への屈折変化、眼球後部の平坦化、脈絡膜のしわなどが帰還後も長期間残った例が報告されています。
ただし「変化が残ること」と「失明すること」は区別する必要があります。NASAの公開情報では、これまで宇宙飛行によって恒久的な視力喪失に至った宇宙飛行士はいないとされています。
火星探査では今まで以上に重要になる
現在のISS長期滞在では、一般的に数カ月単位で宇宙生活が続きます。将来の有人火星探査では、往復だけでも長い時間が必要になり、地球から簡単に帰還することもできません。
軽度の視力変化であっても、機器の表示を読む、細かな修理をする、宇宙船を操作するといった作業への影響は無視できません。視力をその場で正確に補正できなければ、医学的問題だけでなくミッションそのものの安全性にも関係します。
さらに、現在確認されているSANSが1年以上続く微小重力環境でどこまで進行するのかについては、十分な人体データがありません。この点がNASAがSANSを重要な宇宙飛行リスクとして研究し続けている大きな理由です。
無重力による視力低下を防ぐために研究されている対策

SANSの原因が完全に確定していないため、「これを行えば防げる」という治療法はまだ確立されていません。その一方で、原因として有力な頭側体液シフトを減らす方法や、視力変化を補正する方法についてさまざまな研究が進められています。
宇宙飛行中は眼鏡で見え方を補正する
遠視方向への屈折変化については、適切な度数のレンズを使用すれば見え方を改善できる場合があります。NASAでは宇宙飛行中の視力変化に対応できるよう、異なる度数のレンズを用意する方法が採られています。
眼鏡は眼球や視神経に起こるSANSそのものを治すものではありません。しかし、宇宙飛行士がマニュアルや機器の細かな表示を読めなくなるリスクを減らすという点では、現実的で重要な対策です。
これは「視力低下」と「眼の構造変化」を分けて考える必要があることも示しています。見え方だけならレンズで補正できても、視神経乳頭浮腫などの医学的変化については継続的な観察が必要です。
下半身へ体液を戻す方法が研究されている
原因の出発点が頭側への体液シフトであるなら、体液を下半身へ戻せばSANSを軽減できる可能性があります。その考え方から研究されているのが、下半身陰圧装置(LBNP)です。
LBNPでは下半身を密閉した装置に入れて周囲の圧力を低くし、血液などを脚側へ引き寄せます。地球で立ったときに起こる体液移動の一部を人工的に再現しようとする方法です。
ほかにも、太ももを適度に締め付けて脚側に体液をとどめる「サイカフ(thigh cuff)」の研究があります。NASAは宇宙飛行士が実際に装着し、首や脚の血流、視覚への影響などを調べています。
人工重力も将来の選択肢
宇宙船の一部を回転させるなどして遠心力を発生させれば、人工的な重力を作ることができます。十分な重力が一定時間働けば、頭側へ偏った体液を脚方向へ移動させられる可能性があります。
人工重力はSANSだけでなく、骨量低下や筋力低下、循環機能の変化など微小重力による複数の問題を同時に軽減できる可能性がある点が魅力です。
一方で、どの程度の重力を何時間かければ眼の変化を防げるのかは確立されていません。短時間の遠心機トレーニングだけでは十分な効果が確認されなかった研究もあり、実用化には最適な強さや時間を調べる必要があります。
目を定期的に調べて早期変化を見つけることも重要
SANSには個人差があるため、全員へ同じ対策を行うだけでなく、誰にどのような変化が起こっているのかを把握することも重要です。ISSでは視力検査、眼底撮影、OCT、超音波、眼圧測定などが利用されています。
特にOCTでは、視神経乳頭周辺の網膜が数十マイクロメートル単位で厚くなるような小さな変化も追跡できます。自覚症状が出る前から眼の状態を確認できるため、長期宇宙探査に向けた重要な監視手段です。
現在の現実的な対策は「見え方が変われば眼鏡で補正する」「眼の構造を継続的に検査する」「体液シフトを抑える方法を研究する」という組み合わせです。SANSを確実に予防する方法は、まだ研究段階にあります。
無重力による視力低下の理由を理解すると宇宙の人体への影響が見えてくる
無重力で視力が低下する理由は、単純に「眼圧が上がるから」ではありません。微小重力になると地球上で体液を下半身へ引っ張っていた重力の影響が弱まり、血液などが頭側へ移動します。
その状態が長く続くことで静脈血や脳脊髄液などの流れ・圧力関係が変化し、視神経乳頭のむくみ、眼球後部の平坦化、脈絡膜や網膜のしわ、遠視方向への屈折変化などが発生すると考えられています。これらがSANSと呼ばれる一連の変化です。
現在もっとも重要なのは、「頭側体液シフトが大きなきっかけだが、SANSは一つの原因だけで起こる病気ではない」という点です。頭蓋内圧の異常上昇だけでは説明できず、静脈うっ血や眼周囲の圧力、組織の個人差など複数の要素が関与していると考えられています。
地球へ戻ったあと改善するケースが多い一方、眼球の形や屈折状態の変化が長期間残ることもあります。将来の月・火星探査では宇宙滞在がさらに長期化するため、体液を下半身へ戻す装置や人工重力などを利用してSANSを予防できるかどうかが、有人宇宙探査を進めるうえで重要な研究課題となっています。


